第7回 「歩きまくって寿命を延ばした伊能忠敬」
このシリーズは糖尿病に関わりのある人物や出来事をご紹介してゆきます。雑学的な内容ではありますが、糖尿病の予防・治療に関する何らかのヒントになれば幸いです。第7回目は17年間にわたって自らの足で全国を測量して日本地図を作り上げた幕末の天文学者、伊能忠敬(いのうただたか)を取り上げます。
自分の足で作った日本全国地図
伊能忠敬は日本で最初の本格的な全国地図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を作成した人として知られています。輿(よ)とは「万物をのせる台」のことで、輿地は大地を意味します。大日本沿海輿地全図はまさに日本の実測全国地図です。彼は10回にわたる日本全国の測量を自分自身で行い、亡くなる直前まで地図の作成を続けました。そして死後3年を経た1821年、彼の生涯の恩師であった高橋至時(たかはしよしとき)の死後に跡目を継いだ長男の高橋景保(たかはしかげやす)が最終的に完成させ、幕府に上呈したのが大日本沿海輿地全図で、別名「伊能図」とも呼ばれています。この地図は明治中頃に軍部が測量した地図が作成されるまでの期間、日本中で広く利用されていました。また高橋景保が、シーボルトにこの地図の写しをこっそり譲り、1828年にこれが発覚して幕府に捕縛され、シーボルトも国外追放となったシーボルト事件でも有名です。
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず) *東京国立博物館蔵
それまでの日本地図は他人の測量した部分的な地図を寄せ集めて編集したものや、およその見当で描かれた想像地図ばかりで、統一的な実測地図は存在しませんでした。伊能図が完成したのは文化・文政時代です。当時はエトロフ島や蝦夷近海にロシア船がしばしば出没し、ラクスマンやレザノフが来航して通商を求めていました。幕府としては海防上、正確な地図を必要としていた時期であり、幕府天文方の高橋至時に日本全国の実測を打診します。至時が推薦したのが、弟子といっても自分より19歳も年上の当時56歳だった伊能忠敬です。
忠敬はもともと下総佐原の名主でした。50歳で隠居し、江戸に出て高橋至時に弟子入りします。至時のもとで測量技術を学んでいた彼は56歳から17年間、10回に分けて日本全国の海岸線を実測します。その距離は3万5千キロにも及び、70 cmの歩幅で計算すると、5千万歩に相当します。佐原市にある伊能忠敬記念館には彼が使用した様々な測量機材が展示されています。
伊能忠敬記念館 展示の様子
現在、その多くが国宝に指定されていますが、私が訪れた時に興味をもったのが「量程車(りょうていしゃ)」という距離を測る道具です。これを引っ張ってゴロゴロ転がすと、左下の地面に当たる車輪の回転数から、5枚の歯車を組み合わせて距離を測るというものです。これを見た時、江戸時代の道は凸凹が激しかったから、正確な距離の測定は無理だろうと思いましたが、実際この道具はほとんど使用されなかった由です。
「量程車(りょうていしゃ)」
セカンドライフの達人
彼は現在の千葉県九十九里町の小関村の出身です。17歳で佐原の名門伊能家の婿養子となり、伊能忠敬と名乗ります。当時の佐原は利根川水系の河岸で、水運による商業都市として繁栄していました。彼は様々な事業を手がけ、伊能家の財産を350両から1300両まで3倍以上に増やしました。また浅間山大噴火や利根川の洪水、天明の大飢饉などで困窮した村人を助け、利根川堤の修築も行いました。そして49歳で隠居し、家督を長男にゆずり江戸に出ました。
彼が天文方の高橋至時に弟子入りしたのは、もともと歴学や天文学に興味を持っていたからだと言われます。当時、この分野における学問上の最重要課題は、地球の緯度1度分の長さ(弧長)を正確に測定することでした。これが分かれば地球の円周が計算できますから、より正確な暦の作成や日食の予測が可能になります。幕府から実測地図作成を打診された時、高橋・伊能のコンビがこれを即座に引き受けたのは、学問上の探究心から緯度1度の弧長を実測する目的もあったと言われています。実際、彼らは緯度1度の弧長が28里2分であると割り出しました。その後、日本に輸入された当時最高峰のフランスの天文書「ラランデ歴書」には全く同じ距離が記載されており、至時と忠敬は手を取り合って、自分たちの計測が正しかったことを喜び合ったそうです。
以上のように、伊能忠敬は人生の前半を地方実業家として、後半を測量家として過ごしています。全国の測量を開始したのは56歳ですから、現在で言えば定年後の人生、セカンドライフです。定年後に四国のお遍路廻りをするという話も聞きますが、17年間で5千万歩も歩くと言うのは規模が違いすぎます。毎回の測量には10~20名の人員でチームを作って出かけたと記録されています。幕府から拠出された資金だけでは足りず、前半の人生で得た蓄財からの持ち出しも相当あったでしょう。そして学問的な興味だけでは、これだけの偉業は出来なかったと思われます。「世のため人のため社会に貢献する」、「封建社会にあって自分の名を上げる」、「誰もがなし得ていない大事業を自分が行う充実感、わくわく感」など、とらえ方は様々です。ただ言えることは、“年齢に関わらず、今自分に出来ること、目の前のことに集中して、コツコツ続けるのが大切”ということでしょう。そして、おそらく彼は日々の歩行による測量を通して、辛さや使命感だけではなく、楽しみや喜びも感じていたはずです。
毎日歩くということ
糖尿病の運動療法でもっとも手軽なのは歩行です。歩くなら1回に20分以上とか、早足で歩かないと意味がないとか言われますが、そんなことはありません。ご自分のペースで結構です。足や腰に障害がある方、麻痺がある方、動脈硬化や神経障害を合併している方、視力の不自由な方は無理してはいけません。主治医の先生とご相談の上で、自分にできる範囲のことを行ってください。どんな程度にせよ、時間にせよ、歩いている時には人は何かしらものを考えています。私はこれが歩くことの大切な効果だと考えています。歩いていると、急にアイデアがひらめくことがあります。迷ったり、思案していたりしていたことに対して、急に頭がまとまることもあります。歩いていると、季節の移り変わりや物の値段、イベントや展示などの開催、新しいお店の開店、知らなかった近道など、身近な情報を得ることができます。これも歩くことの大きな効果です。通勤・通学であれ、買い物であれ、散歩であれ、歩くことの楽しみをもつことが継続につながると思います。
新・平成の伊能忠敬
忠敬は若い頃から喘息持ちで体が弱かったと言われています。しかし71歳まで測量を続け、72歳で肺炎のため死去しています。72歳は当時としては長寿でした。毎日歩くこと、体を動かすことが健康寿命を延ばすことにいかに役立つのか、の良いお手本だと思います。彼は19世紀前半に亡くなりましたが、現在でも彼のコンセプトは生き続けています。写真は私が愛用している万歩計「新・平成の伊能忠敬」です。3Dセンサー内蔵で私は胸ポケットに毎日入れていますが、小型軽量で薄くて気になりません。東京をスタート地点として、毎日の歩数に応じて反時計まわりに日本の沿岸を回るようになっています。現在、私は山口県の日本海沿岸を歩いています。歩数が少ないと伊能先生から「努力せよ」と叱られ、よく歩いた日は「よくやった」とほめられています。
「新・平成の伊能忠敬」
おわりに
歩行はとてもよい運動ですが、歩くこと自体が目的と考えてしまうと、おもしろくありません。歩くことによって得ることができるもの、それが目的ですし、それは人によって様々です。これはスポーツジムでの運動や水泳でも同じだと思います。改めて自分なりの楽しみを再発見してはどうでしょうか。



